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トラクルの叙情詩「冬に」を読み解く

管理人

まえがき |  詩の本文
はじめに |  形式の破壊と構築 |  絵画としての詩 |  間テキスト的読解
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まえがき

    オーストリアの詩人・ゲオルグ=トラクル(Georg Trakl, 1887–1914)は、独特のまがまがしい情景を詩で描くのだが、その詩的技法の巧妙さもつとに知られている。以下、叙情詩冬に(Im Winter, 1910)のKemperによる解説〔1〕の摘要を記す。
    原文・原語を併記していますが、ドイツ語の知識がなくても、ぜんぜん気にしないで読んでください。原語・原文のこみいった解説は適宜捨象してください。詩的技法の専門的な解説はなるべく註にて行っています;本文でも行っています。適宜捨象してください。また、Kemperの解説文は「形式の(脱)構築―羅列様式に於ける詩的描画」という題名です。それは気にしないでください。

▲冒頭

詩の本文

      冬に

      畑地が白く寒く輝いている。
      天が寂しげでものものしい。
      コガラスが沼の上を巡っている
5    そして狩人が山林から降りてくる。

      沈黙が黒い梢に住んでいる。
      炎のきらめきが小屋から飛び出る。
      折々はるか遠くで鳴る、橇の鈴が
      そしてゆるやかに昇ってくる、怖い月が。

10  獣があぜ道で血を流している
      そしてオオガラスが血の溝でたわむている。
      アシが黄色く細長く震えている。
      霜・煙・歩音が虚ろな小苑に。

      Im Winter

      Der Acker leuchtet weiß und kalt.
      Der Himmel ist einsam und ungeheuer.
      Dohlen kreisen über dem Weiher
5    Und Jäger steigen nieder vom Wald.

      Ein Schweigen in schwarzen Wipfeln wohnt.
      Ein Feuerschein huscht aus den Hütten.
      Bisweilen schellt sehr fern ein Schlitten
      Und langsam steigt der graue Mond.

10  Ein Wild verblutet sanft am Rain
      Und Raben plätschern in blutigen Gossen.
      Das Rohr bebt gelb und aufgeschossen.
      Frost, Rauch, ein Schritt im leeren Hain.

▲冒頭

はじめに

    この詩は伝統的な体験詩をおびやかす初期表現主義の詩である。しかし、まずは、後に述べるブリューゲルの絵画「雪中の狩人」が描くような、わかりやすい冬景色を絵にしている。だが、詩で用いられている言葉が日常言語から遊離し、テキストが現実から自立してしまってもいる。で、この矛盾は解消されない。作者トラクルが、古典的な叙情詩を破壊しつつ、自分独自のものを構築しようとしていた時期、その創作活動の第2期の作〔トラクルの創作活動4段階に関してトラクル「暗い谷」のまえがきを是非参照されたい〕だからである。

▲冒頭

形式の破壊と構築

    トラクルの詩が「脱自我」・「脱人格」を特徴とすることを1916年にヴァルツェル〔Oskar Walzel, 1864–1944〕が指摘している。第2期のトラクルの詩は、独自の様式を確立しつつあり、叙情詩の伝統的主題であった「詩的自我〔das lyrische Ich。トラクル「暗い谷」の註〔11〕で詳論〕」の排除に向かう。それは、4つの異なった情景を、4つの同型詩行〔2〕で並べて1つの印象に溶かしこむという羅列様式〔Reihungsstil〕なる手法で書いた詩だ。初期表現主義のファン=ホッディス〔Jakob van Hoddis, 1887–1942〕とリヒテンシュタイン〔Alfred Lichtenstein, 1889–1914〕もこの様式を確立していた。
    羅列様式はもともとは印象主義の詩人に使われていたもので、時空の一体感や風景の一貫性を描くためのものであった。冬にで見られるように、表現主義ではそうはならなかった。
    冬には、第2期のトラクルのこの「熱烈に獲得された手法」で書かれたもので、4詩行が3つ連なっていて、3つの異なった情景(自然と人間の)を描いている。各詩行が新たな情景を次の詩行に連ねている。詩行の切れ目に文の切れ目がきている。それぞれの詩節〔3〕に1つある詩行またがり〔4〕も、文をつぶしてはいない。「そして〔und〕」でつながれた主文を並べているだけだ。詩行またがりは第1詩節では3行目から4行目にかけてしており、第2詩節でも同様、第3詩節では1行目から2行目にかけてしている。これで詩行またがりが対位法をなしていて、詩全体を閉じた円環にしている。文が行ごとにきちきち終わっているから、各情景の区切りがきわだつ。
    この詩の単調さは、主語・述語・副詞・前置詞がぼつぼつと連なっているから、またきわだつ。第1詩節を見てみると、主・述・副・前がいかにもぼつぼつと並んでいる。第2詩節の3・4詩行目で主語が文末にきているものの、第3詩節では第1詩節の単調さにもどる。
    古典時代の詩なりクロプシュトックの詩なりの、長大な文や倒置法に比べると、トラクルの詩の単調さはいかがなものか。
    とはいえ、表現主義の叙情詩は、伝統的な詩形式やジャンルと手を切り、そういうところで顕著だった自己意識や詩我と手を切るものである。「自我〔私〕」の統一感は、主体概念といっしょに、表現主義の世代ではゆさぶられ壊滅している。「私」は詩の中心にならなくなっている。冬にでも、「私」らしいものは、「寂しげでものものしい」に顔を出したり、「はるか遠くで」と言っていちおう私視点を見せたり、「ゆるやかに昇ってくる、怖い月が」と言って大体の時刻を表したりしている。これらの話し手らしい人物は間欠的で間接的だ。
    古典詩の場合と異なり、この詩の情景羅列には漸進性がない。次のように詩行を入れ替えた第1詩節も可能だろう。

狩人が山林から降りてくる。
コガラスが池の上を巡っている。
天が寂しげでものものしい。
畑地が白く寒く輝いている。

    古典主義・ロマン主義の詩に見られる、構造的に張りつめた感じも、情景の象徴作用も見られない。詩の「意味」が詩の「情景」もろとも崩れている。没落と・死と・「黒い梢に住んでいる」「沈黙」とが見られるばかりだ。詩は無目的だ。空虚と孤独で詩は始まり終わる。この詩がもっと長くても、詩節が1つ足りてなくても、大して違わないかもしれない。外界に対する無関心が漂ってくるばかり。全体が暗い感じなので、「炎のきらめきが小屋から飛び出る。」・「折々はるか遠くで鳴る、橇の鈴が、」のような多少は明るい詩行も、不安・恐れ(「飛び出る」)と孤独(「はるか遠くで」)をまぬがれない。冬の死の香りに対して人間の前むきな生が詠まれているとも言えるが、詩の無関心な感じはぬぐえない。詩の中で情景を知覚している視点がバラバラであり、それもこの無関心さがなお強める。
    詩をタテに見ていけば、「畑地」・「天」・「コガラス」・「狩人」・「沈黙」・「炎のきらめき」がバラバラに万華鏡をなしている。具体的な「コガラス」、抽象的な「沈黙」、空と地上、自然と文化(「炎のきらめき」)、複数のもの(「コガラス」・「猟人」)と単数の事象(「沈黙」・「炎のきらめき」)、たった6行にこれだけ詰まっている。
    この詩の原動力と形式の一部は、あきらかに、伝統詩の体系的破壊から得られている。体験詩は空虚に落ちこみ、詩行の切れ目に文の切れ目がきているちょうど同じところで、つまり情景と意味が重なるところで、「沈黙」に至る。詩の主人公が居ない。そういうことからして、この詩は形式破壊〔Destruktion〕としての形式を持っていて、形式主調の脱構築〔De-Konstruktion〕をしている。

▲冒頭

絵画としての詩

    だが冬にはそういった表現主義詩の調子と対照をなしてもいる。この詩はそもそも題名どおり冬景色を描いている。ここから実験的な読みをしよう。父ブリューゲル〔推定1525–1569〕の「雪中の狩人」〔1565〕と冬にとを重ねてみるのだ。
    この絵画はトラクルがウィーン美術史館で見たはずである。詩の前半はこの絵画とうりふたつであり、寒さ・孤独・広さ・雪・霜を共有している。
ブリューゲル「雪中の狩人」
    この絵画もまた、無数の異なった要素と風俗描写との積み重ねでできている。それらは視点の定まった構成によって1つにまとめられている。左手手前の木々が、視点を、対角線的に、右手上方の山のギザギザに向ける。視点のその向きは、狩人・犬・木々・道・屋根・川が左手から右手に向かっていることによって裏付けられる。この対角線に、右手下方から左手上方の角に向かう対角線が交差している;この後者の対角線は、絵の中の、いちばん手前の坂道が描いている。対角線は流れていってしまいそうだが、この交差のおかげで安定感が出る。この絵は、左手の(絵の下のほうの)半分に人の気配のする自然が、右手の(絵の上のほうの)半分に人の気配のしない(岩山の)自然が配置されている。この2つの部分は、2本の対角線のおかげで結合している。冬の厳しさという自然が描写されている一方で、それと対比的に、氷上で遊ぶ絵や豚皮を火であぶる絵という人間的な要素が配置されている。
    トラクルは天性の詩的手段で、この絵に似た「聖画」らしさを再現している。冬にの個々のモチーフはヤコブソンの等価原理で選別される。情景の構築のためには、第1詩節の羅列は順序をかえれない。
    「畑地が白く寒く輝いている。〔Der Acker leuchtet weiß und kalt. 〕」には2つの対立音が見られる:aeiがそれだ。ここではaは暗さを表していて、「寒く〔kalt〕」のaと結びつく。「寒い〔kalte〕」黒い〔schwarze〕「畑地〔Acker〕」が「輝いてい」てしかも「白い〔weiß〕」。「輝く」というのは視覚的なものだから、「白く寒く」という二詞一意〔5〕は誤用だ。しかし「白く〔weiß〕」はここでは「氷〔Eis〕」と結びついて、寒さと結びつく。この第1詩行は、「Acker」のaにアクセントが落ちて始まり、「kalt」のaにアクセントが落ちて閉じる。情景が閉じて硬直する。だが構文上・リズム上この詩行でいちばん高いのは「weiß」である。「白く寒く」はリズム上不可分で、音が対比されていて、しかも意味的に結びつく。さらに「広さ〔Weite〕」が「白く〔weiß〕」に含意されている。詩の場面は「畑地」だから当然広い。第1行目で視覚と触覚が二重露出〔Überblendung。写真用語。映像用語としては、Überblendungは溶暗→溶明をする技法(ディゾルブ)〕になっている。最初の8行において、各行の揚格〔6〕の必ず1つには二重母音eiが用いられている。音の類似は意味の類似を招くというヤコブソン〔Roman Jakobson, 1896–1982〕の定理に従えば、たしかに連続するeiが詩を「寒く〔weiß〕」のイメージで貫いている(このヤコブソンの定理のようなものはトラクル研究ですでに確立されているのだが)。これを示してみよう:

2 Der Acker leuchtet weiß und kalt.
3 Der Himmel ist einsam und ungeheuer.
4 Dohlen kreisen über dem Weiher
5 Und Jäger steigen nieder vom Wald.

6 Ein Schweigen in schwarzen Wipfeln wohnt.
7 Ein Feuerschein huscht aus den Hütten.
8 Bisweilen schellt sehr fern ein Schlitten
9 Und langsam steigt der graue Mond.

    第3行目は「天」と「ものものしい」で「広さ」がさらにひろがる〔「ungeheuer」は「ばかデカくてものものしい」〕。恐ろしい印象があらわれ、次の情景につづく。「コガラス」は黒灰色の鳥であり、「巡って〔kreisen〕」と「沼〔Weiher〕」に視覚的に結びつく。それらは今や白さ・寒さ・「寂しげ〔einsam〕」として感じられているはずだ。黒鳥「コガラス」は第3詩節の「オオガラス」ともちろん対応している。どちらも「巡って」獲物を狙う。コガラスは〔黒い〕狩人と一致する。コガラスは「巡って」いるし「降りてくる」からだ。「山林〔Wald〕」もまた黒い〔schwarz〕。さらに、「山林〔Wald〕」は「狩人〔Jäger〕」といっしょに第4詩行を閉じている。これは第1詩行と同じ構造だ。〔Kemperはこう書いているが、äはaと同じ音ではない〕。
    第2詩節では、i-とei-との母韻〔7〕に加えてさらに頭韻がもちいられる。第1詩節での頭韻「weiß」・「Weiher」・「Wald」が、「 Wipfeln wohnt」・「 Feuerschein」・「Bisweilen」・「 fern」へとつながる。さらに、「沈黙〔Schweigen〕」・「黒い〔schwarzen〕」・「炎のきらめき〔Feuerschein〕」・「鳴る〔schellt〕」・「橇〔Schlitten〕」・「昇ってくる〔steigt〕」が第1詩節での「降りてくる〔steigen〕」へとつながる。「沈黙〔Schweigen〕」を経由して、、「氷のように白い雪のようなもの〔Eisig-Weiße-Schneeige〕」がこの頭韻グループへとつながる。そうして、第2詩節の1行目「沈黙が黒い梢に住んでいる。」は第1詩節1行目の黒色・白色の対立を繰り返している。
    第3詩節はどうか。タテに読むと、「あぜ道〔Rain〕」・「オオガラス〔Raben〕」・「アシ〔Rohr〕」・「煙〔Rauch〕」が頭韻している。第2詩節末尾の「月〔Mond〕」からoの母韻が始まる:「溝〔Gossen〕」・「アシ〔Rohr〕」・「細長く〔aufgeschossen〕」・「霜〔Frost〕」がそうだ。
    第3詩節ではこのように頭韻と母韻が多少変わっていて、それにつれて詩の調子も変わっている。単調さが避けられている。すでに詩行またがりと音象徴に関してみたように、トラクルはここで反復と変化という構造を使っている。この詩はすべての行が4揚格であるが、揚・弱・揚・弱が規則的に出てくる所〔第1詩節1詩行目や第3詩節1詩行目など〕と不規則に出てくる所とがある。4揚格詩行は、反復されつつ、少しづつ変化する。
    ブリューゲルの絵画と同じく冬にでも視点と対角線がきいている。第1詩節の第1詩行は地面のイメージから始まる。第2詩行で天空に視点が移り、第3詩行で「コガラス」=天空にとどまり、第4詩行で狩人と一緒に地面に降りてくる。
    第2詩節は反対。第1詩行で視点は高いところ(梢)にある;2・3詩行目で低いところに降り、4詩行目で月と一緒に天空に昇る。
    第3詩節では視点は移動しない。ここでは不定な空間が暗示される。この不定な空間から詩が始まっているのであり、詩の結尾は冒頭に戻ってくる。不定な空間はブリューゲルの絵の中央にも配置されている。
    さてこうして個々のモチーフが鏡像効果を出している。鏡像効果によってそれぞれの情景は密接になる。その効果は詩の中央で強化される。詩は全体には12行だが、最初の6行がブリューゲルの絵に対応していて、次の6行がトラクルの創作であると言える。12行の中央の2行は人間的なもの(炎と橇の鈴)を描いている。それはブリューゲルの絵の中央に、2つの池の上で遊んでいる人間が描かれているのに対応している。全12行の詩の1番目の行と12番目の行を見てみると、対角線的に・交差法〔8〕的に要素が配置されている。

2 畑地が白く寒く輝いている。
〔Der Acker leuchtet weiß und kalt.〕
〔・・・〕
13 霜・煙・歩音が虚ろな小苑に。
〔Frost, Rauch, ein Schritt im leeren Hain.〕

「畑地〔Der Acker〕」が「虚ろな小苑〔leeren Hain〕」に対応し、「寒く〔kalt〕」が「霜〔Frost〕」に対応し、対応が対角線の交差を描いている。最後の行で詩は最初の行に戻っているのだ。さらに13行目自体が交差法をなしている。

霜・煙・
〔Frost, Rauch,
歩音が虚ろな小苑に。
ein Schritt im leeren Hain.〕

「霜〔Frost〕」と「小苑〔Hain〕」という自然的なものが対応し、「煙〔Rauch〕」と「歩音〔ein Schritt〕」という人間的なものが対応し、対応が対角線の交差を描いている。さらに「煙」は第2詩節の「炎のきらめき」に戻っており、「歩音」は第1詩節の「狩人」に戻っている。このような照応関係は、全12行の2番目の行と最後から2番目の行にも見られる。

3 天が寂しげでものものしい。
〔・・・〕
12 アシが黄色く細長く震えている。

寂しげで怖い天空と、地面で怖がって震えているアシの心境が対応している。はたまた、このような照応関係は、最初から3番目の行と最後から3番目の行にも見られる:コガラスとオオガラスが照応しあっている。最初から4番目と最後から4番目の行も同様で、狩人と、狩人に狩られた獣が照応しあっている。中央に配置されている第2詩節は、すでに見てきたように、両端詩節にいろいろな仕方で照応している。

沈黙が黒い梢に住んでいる。〔第1・3詩節の寒さ・広さ・黒さ・白さ・上方視点に照応〕
炎のきらめきが小屋から飛び出る。〔第1・3詩節の人間的なもの・下方視点に照応〕
折々はるか遠くで鳴る、橇の鈴が〔第1・3詩節の人間的なもの・下方視点に照応〕
そしてゆるやかに昇ってくる、怖い月が。〔第1・3詩節の怖ろしさ・上方視点に照応〕

    この詩の羅列様式は一見単調で、伝統詩の破壊にも思えたが、個々の要素が暗に緊密になっていることを肌に感じさせるような様式なのだった。第2期のトラクルが、1詩節内の4つの異なった情景を1つの印象に溶け合わせるという試みをしていたということがどういうことなのかが、このことから理解される。冬にでは象徴音・文構造・モチーフの繰り返しがのモチーフを指示している。冬には詩であるのに、絵であるかのように直接に感性に響いてくる。いや、音・語・文・リズムの反復によって、詩はもはや瞑想的ですらある。

▲冒頭

間テキスト的読解

    冬にの個々の要素は現実にしっかり照応していた。ところがこの詩には、現実からはなれて独自の世界を作る傾向もある。それは第2期のトラクルの使用語彙にかかわる。この時期のトラクルは同じ語彙の組み合わせ・変形を他の作品にも用いている。それらの照応関係を今から論じる。
    冬には1910年6月の作と推定されている。同じく1910年6月の作と推定されている作オオガラス〔Die Raben〕の中の言葉「黒い角っこ〔Winkel〕」は冬にの「黒い梢〔Wipfel〕」に当たる。「鹿」は「獣」に、「静けさ」は「沈黙」に当たる。両作ともに「畑地」が出てくる。オオガラスの「腐肉」は冬にの「獣があぜ道で血を流していて、」に当たる(さらには同じ頃に書かれた暗い谷の「獣がハシバミのやぶで血を流している。」をも参照できよう〔トラクル「暗い谷」〕)。冬には詞華集『詩集〔Gedichte, 1913〕』の中央に配置されている;冬にの前に24の詩が、後に24の詩が配置されている(詩1つ1つの数え方によるが)。〔オオガラス詩集の1番目に来ている〕。
    オオガラスでは「女のように」「恍惚とした」「畑地」や「欲情にわなないている」「空」が出てくる。冬にという作品にも、単独で見ていたのでは出てこない性的意味がこもっている。それは神話でいう「hieros gamos〔聖なる結婚〕」〔これは古典ギリシャ語。ἱερὸς γάμος〕、すなわち天と地の性交のことであり、冬にの冒頭の畑地と天の描写もそれを含意していると考えられる。冬にオオガラスとの間に配置された詩のいくつかに性的含意がみてとれる。
    たとえば農夫たち〔Die Bauern〕:「畑が1つの畑地の中で光っていて/天が鉛色をして広がっている。/火が渋面をして暖炉の中でまたたいている/〔・・・〕/ときどき欲望の視線が交わる/動物のかたちのもやが部屋を通ると」。
    冬にの「沼」に関係あるのが淑女の祝福〔Frauensegen〕だ:「君の体がそう美しくふくらまされたように/丘でぶどうが金色に熟れる。/遠くで沼の鏡面が輝いて/大鎌が野で鳴る」。
    また「コガラス」に関係あるのが若い女中〔Die junge Magd〕の「ブナの木」だ:「ブナの木にコガラスが舞っていて/その女中は影のようである」。
    「黒い梢に」「住んでいる」「沈黙」はあらかじめで官能化されている:「夢のように、たおやかな尼が急いでいる/蒸し暑いブナの下に沈黙」〔美しい街(Die schöne Stadt)〕、「恋する者のため息が枝にまぎれる/その所で母と子が死んで腐る」〔万霊節(Allerseelen)〕、「妹の口が黒い枝の中でささやく」〔人生の心(Seele des Lebens)〕〕といった具合に。〔トラクルの場合「Schwester」は無条件で「妹」〕
    「妹」はトラクルの詩で何度も「獣」の姿をとる。たとえば妹に〔An die Schwester〕:「君が行くところ秋になり日が暮れる/青い獣よ、木々の下で鳴いて/寂しげな沼が暮れ方に」。
    このようにしてトラクルの詩作品に内在して間テキスト読解〔9〕をすることができる。冬にではとにかく寒さが表されていたが、語音にも情景にも表わされない「ふるえるような官能」が実はみてとれる。
    詩からさらに、「獣」を狩ろうとする隠された表現がみてとれる。それは象徴的に嗜虐的な・不穏なシーンだ。このシーンに沿って、各情景が「無気力にバラバラに」並べられているだけにも見えてくる。これはトラクルの〔妹との〕近親相姦タブーに関わる。
    そう考えると、詩行の順序はおろか、詩節の順序も勝手にはかえれなくる。第1詩節は怖ろしい・不穏な獲物追跡から始まる;第2詩節を通過しつつ、不安をあおりたてる自然景観と、人気の喪失が囲んでくる;第3詩節で獲物は血を流しながら死ぬ。しかも「そしてオオガラスが血の溝でたわむている。」ということで、獲物は死後の平安を奪われている。「虚ろな小苑」の歩音は、「Wiedergänger〔10〕」の提喩〔11〕になっていて、死の提喩になっていて、死が救いだとか終局の平安だとかいう意味付けをも拒絶する。ここで詩の結尾は、円環をなして冒頭にかえってくる。だが死は詩からも脱して、詩人の自己確認という際限ない徒労、意味喪失と死による忘我を示す。なにせ、冬にの次に配置されている作品古い記名帳に〔In ein altes Stammbuch〕が「憂うつよ、お前はしつこく還ってくる」で始まっている。
    冬にのモチーフは第3の創作活動期〔1912–1914〕にも生きている。
    たとえば誕生〔Geburt〕はこう始まっている。

山脈:黒・沈黙・雪。
山林から狩猟連が赤く降りてくる;
ああ獣の苔むす視線。

    この創作活動段階は『詩集』の最後の詩ヘーリアン〔Helian〕に兆しているが、、ここでも冬にからモチーフを借りている。トラクルが個性を確立する第3期への途上では、表現主義と文体を共有している第2期が明らかにみられる。トラクルの詩は、伝統的な自然詩・体験詩の羅列様式を拒否するにつれて、独自の暗号・象徴を備え出し、現実から離れた独自の語彙を持ち出す。トラクルの詩では居場所も方向も失われている。絶望に満ちている。そこで、伝統的な詩的意味付けが破壊されている。そこで、トラクルの詩的世界が構築されていて、トラクルの記号体系が構築されている。意味を拒絶するということの一般的な意味では、この2つの傾向は、絶望的な喪失の中で「解消されている〔aufgehoben〕」。

▲冒頭

〔1〕Kemper, Hans-Georg: Form-(De-) Konstruktion. Poetische Malerei im Reihungsstil. In: Interpretationen. Gedichte von Georg Trakl. Hg. v. H-G. K. Stuttgart 1999. (Reclams Universal-Bibliothek. Nr. 17511.) S. 43–59.

〔2〕Vers。詩の1行1行のこと。詩そのものも意味するようにもなってしまっている。詩行の区切りは改行で示すものだが、詩を引用する際には、元のとおりに詩をタテ方向に並べるのが煩雑だとかの理由があって詩行をスラッシュで区切っていく場合も多々ある。
    例えばアウグスト・シュトラム(August Stramm, 1874–1915)の作品などはそうしたくなるだろう。作品原死を引用しよう(Stramm, August: Urtod In: A. S. Gedichte Dramen Prosa Briefe. Hg. v. Jörg Drews. Stuttgart 1997. (Reclams Universal-Bibliothek. Nr. 9929.) S. 70–71.)。

Raum
Zeit
Raum
Wegen
Regen
Richten
Raum
Zeit
Raum
Dehnen
Einen
Mehren
Raum
Zeit
Raum
Kehren
Wehren
Recken
Raum
Zeit
Raum
Ringen
Werfen
Würgen
Raum
Zeit
Raum
Fallen
Sinken
Stürzen
Raum
Zeit
Raum
Wirbeln
Raum
Zeit
Raum
Wirren
Raum
Zeit
Raum
Flirren
Raum
Zeit
Raum
Irren
Nichts.

こういう詩を引用するならスラッシュ区切りで引用したくなるだろう:「Raum / Zeit / Raum / Wegen / Regen / Richten / Raum / Zeit / Raum / Dehnen / Einen / Mehren / Raum / Zeit / Raum / Kehren / Wehren / Recken / Raum / Zeit / Raum / Ringen / Werfen / Würgen / Raum / Zeit / Raum / Fallen / Sinken / Stürzen / Raum / Zeit / Raum / Wirbeln / Raum / Zeit / Raum / Wirren / Raum / Zeit / Raum / Flirren / Raum / Zeit / Raum / Irren / Nichts.」という具合に。
    訳文もこれで書く:「空〔間〕/時〔間〕/空/動く/動く/向ける/空/時/空/延ばす/一にする/多にする/空/時/空/向く/抗う/伸ばす/空/時/空/よじる/投げる/絞める/空/時/空/落ちる/沈む/墜ちる/空/時/空/回る/空/時/空/乱れる/空/時/空/ゆらめく/空/時/空/惑う/無」。(この詩は語の意味と音響が内容凝縮されすぎているので他言語訳がとくに原文を伝えないものになるが、読者はそんなこと言われなくても原文の字面を見たら分かるとおっしゃるであろう)。
    1行1行が長い場合にはタテ並びのまま引用したくもなるだろう。ヴェーデキント(Frank Wedekind, 1864–1918)の悲歌(ゲーテ「植物の変態」(a)の註〔1〕)を引用しよう((Wedekind, Frank: Politische Disticha. In: F. W. Gedichte und Lieder. Hg. v. Gerhart Hay. Stuttgart 1989. (Reclams Universal-Bibliothek. Nr. 8578.) S. 70.)。(ところでこの悲歌は6行目のペンタメタと9行目のヘクサメタと10行目のペンタメタが韻律が破れている。そこらへんに関してはトラクル「暗い谷」の本文と註〔6〕参照)

Viele verloren Gedächtnis und Sprache, so dringt es aus allen
    Landen, in denen der Krieg schon seine Schauer entrollt.
Sind das nicht himmlische Zeichen? — Die Menschheit, die diesen Krieg
                                                                führt,
    Ist des Gedächtnisses nicht, ist auch der Sprache nicht wert.

Menschliche Schwächen, nicht himmlische Zeichen sind's. Ihrem
                                                                Gedächtnis
    Hat noch die Menschheit nie so Gewaltiges erkämpft.
Und die Sprache der Feldpostbriefe, klingt sie nicht golden
    Gegen das donnernde Blech, das aus den Zeitungen dröhnt?

Ein vollständiges Verzeichnis der Ortschaften, die in dem Kriege
    Ganz oder teilweise zerstört, gibt es bis heute noch nicht.
Dringend herrscht ein Bedürfnis danach, denn viele schon zogen
    In die Heimat zurück und sie gelangten ins Nichts.

数多くが記憶と言語を奪われた、世界中
から押し寄せてきている、大戦の恐怖が拡がっていた国々から。
天からの兆しでなかったか。―今大戦を起こした連中は
記憶する価値も言語にのぼす価値もない。

人間の弱さについては、これは天からの兆しなのではなかった。人間の弱さが記憶するかぎりでは
人類がこれほど強大になったことはなかった。
戦地から来る手紙の言葉については、これは金色に
けたたましい金管に向かって音を出してはいないか、新聞の中の凶悪な金管に向かって。

村落の詳細な記録については、大戦中に
全部または一部破壊された村落のことだが、そういう詳細な記録は残っていない。
がそれが必要なのだ、多数の人がいまや
故国に帰還したからだ、帰る場所は無いのだが。

だが結局は読者の注意に強く訴えたかったら元の通りタテ並び、そうでもなかったらスラッシュ区切りで引用するものだ。こういう話が通じない詩、詩全体が絵になっている詩は、まるごとそのままの形で引用するしかない。例は詩の花のバロック詩や具体詩(キルシュ「もう雪の・・・」の註〔9〕)である。

〔3〕Strophe。詩行が何行かまとまって1つの詩節をなす。詩節の区切りは空白の行で示す。なお詩行と詩節にかんしては、キルシュ「もう雪の・・・」の註〔9〕も参照されたい。

〔4〕Enjambement(Zeilensprung, Verssprung)。詩行から次の詩行へと文が途切れずにまたがってしまうこと。冬にの詩行またがりは、弱い方だといえる。強い詩行またがりの例をトラクルの詩から出す(カスパー=ハオザー歌より抜粋(Trakl, Georg: Kaspar Hauser Lied. In: G. T. In den Nachmittag geflüstert. Gedichte 1909–1914. M. einer Einl. v. Katharina Maier. Wiesbaden 2009. S. 153.)。この作品の分析は詩と言語学の第3章で行っている):

Frühling und Sommer und schön der Herbst
Des Gerechten, sein leiser Schritt
An den dunklen Zimmern Träumender hin.

春と夏と、義の人の
秋はうるわしい、その者のかすかな足音が
夢見る者らの部屋へと。

詩行またがりは詩人が意図的にやって効果をねらうものである。文が長いから次の行にまたがってしまったという場合でも、またそれによる何らかの効果が出る。そういう多少は偶然的な詩行またがりでなくひたすら効果を企図した詩行またがりを用いる詩人も数多くある。有名どころのツェラン(Paul Celan, 1920–1970)から例を出そう(P. C. Ausgewählte Gedichte. Nw. v. Beda Allemann. Frankfurt a. M. 1968. (edition suhrkamp 262.) S. 103.より):

Die Zahlen, im Bund
mit der Bilder Verhängnis
und Gegen-
verhängnis.

Der Drübergestülpte
Schädel, an dessen
schlafloser Schläfe ein irr-
lichternder Hammer
all das im Welttakt
besingt.

いくつもの数、つながって
絵の宿命と
それと反
宿命と。

その上に折り返した
頭骨、その
不眠のこめかみに鬼
火のような金鎚が
これらすべてを世界拍子で
賛美する。

    詩行またがりは詩行と詩行の間という詩の切れ目を期待する箇所で切れ目ができないことである。詩の切れ目を期待する箇所で文が切れないということなら、これは、詩行またがりというわけではないが日本の詩にはごくありふれたものである(句切れのことではない)。例を挙げよう:

(1)思ひつつ寝ればや人の見えつらむ/夢と知りせば覚めざらましを
    (小野小町・『新古今和歌集』巻12(恋2)・552)

(2)玉の緒よ絶えなば絶えねながらへば/忍ぶることのよわりもぞする
    (式子内親王・『新古今和歌集』巻11(恋1)・1034)

(3)我が袖は潮干に見えぬ沖の石の/人こそ知らね乾く間もなし
    (二条院讃岐・『千載和歌集』巻12(恋2)・760)

(4)今はただ思い絶えなむとばかりを/人づてならでいふよしもがな
    (藤原(左京大夫)道雅・『後拾遺和歌集』巻13(恋3)・750)

(5)恋ひ恋ひて逢へる時だにうるはしき/言(こと)尽くしてよ長くと思はば
(戀々而  相有時谷  愛寸  事盡手四  長常念者)
    (大伴坂上郎女・『万葉集』巻4・661)

短歌形式の詩で上の句と下の句の間に詩行間的切れ目があると勝手に仮定すれば:
(1)ではその切れ目で文も切れている;
(2)ではその切れ目を前件文・後件文がまたがっている;
(3)ではその切れ目を、上の句で立った主格語がまたがって下の句の述部にとどいている;
(4)ではその切れ目を、上の句で立った対格文がまたがって下の句の述部にとどいている;
(5)ではその切れ目を、修飾形容詞・非修飾名詞の修飾関係がまたがっている。

〔5〕Hendiadyoin。2つの類似した語が1つの意味を作ること。古代ギリシャで確立された修辞法。「2による1」という意味の古典ギリシャ語「ἓν διὰ δυοῖν」に由来。いまでは、詩と散文の特別な修辞法のことでもあるし、似た2つの語を1つの意味でならべる表現全般のことでもある。本文では、意味の上では二詞一意になっていない表現が音の上では(「ei」つながりで)二詞一意になっていて、それで意味の上でも二詞一意になることが出来ているということを言っている。音や文構造という外面的なものを使って意味や意図という内面的なものを形作るのが詩の特別な機能である。

〔6〕Hebung。「上げる」という意味の「heben」からきているから「揚格」と訳す。反対がSenkungで「抑格」。揚格は語のアクセントと一致することになっているが、一致していない失敗らしい詩作があったり、わざと一致させない効果ねらいの詩作があったり、そもそも揚格・抑格は日常言語のアクセントに従属すべきかという議論があったりで、韻律論上もめる概念。1詩行に入る揚格の数が決まっていて抑格の数は自由とか、揚格・抑格が厳に交互に表れるとか、両者の区別が意味がなくなるとか、いろんな詩作パターンがある。トラクルのこの詩に関して見ると、あまり形式にとらわれてはいないと言える:

Der Acker leuchtet weiß und kalt.
Der Himmel ist einsam und ungeheuer.
Dohlen kreisen über dem Weiher
Und Jäger steigen nieder vom Wald.

という風に揚格が落ちている。揚格の数はどの行でも4つ。規則的に揚・抑が交替してはいない。揚格間の抑格の数は自由(füllungsfrei)という規則がドイツ詩にはある。自由といっても、たいてい1~4個、3個はまずない。また大詩人の詩の多くが揚・抑・揚・抑・・・の単調交替で書いてある。最後の詩行が

Frost, Rauch, ein Schritt im leeren Hain.

となっていて、日常会話ではアクセントが落ちる「Frost」が抑格になっている。ただここは「Rauch」に揚格が落ちていると言い切れるところではない。この12行の詩は、どうもどの行も抑格から始まっている。これは行頭抑格すなわちAuftaktが付いていると考える。しかし4行目にはAuftaktが付いていない。だからAuftakt付きという形式を一貫するつもりが無いようだ(Auftaktを付けていない語には特別な意味をこめているのかもしれない)。「Frost, Rauch,」みたいな、揚格の位置が定まらない音節連続を「宙ぶらりん強勢(schwebende Betonung)」という。これはなんらかの効果を詩人が意図していると普通は考える。7番目の行が

Ein Feuerschein huscht aus den Hütten.

となっていて、日常会話では「huscht aus」となるべき揚・抑が逆になっている(ドイツ詩の基本的な規則として、揚格が連続してはならないというのがある。それを守りつつこの行を揚格4つにするには、「huscht」を抑格にして「aus」に揚格を落とすしかない)。ここにも詩人のなんらかの意図があるのかもしれない(ぜんぜん無いのかもしれない)。
    揚格と抑格という韻律の規則と強勢(アクセント)という言語の規則とのずれによる詩的効果に関しては、トラクル「暗い谷」の本文と註〔6〕に詳論してある。
    ところでKemperの本文では、最初の8行で揚格がeiに落ちるのは第1揚格か第2揚格に限ると書いてあるのだが、1詩行目だけは第3揚格がeiに落ちている。

〔7〕Assonanz。母音のみが韻を踏んでいること。第2詩節では確かに「in」「Wipfeln」「Bisweilen」「Schlitten」と母韻が見られる。
    ところでこの詩は3詩節とも脚韻を踏んでいる。

Der Acker leuchtet weiß und kalt. (a)
Der Himmel ist einsam und ungeheuer. (b)
Dohlen kreisen über dem Weiher (b)
Und Jäger steigen nieder vom Wald. (a)

Ein Schweigen in schwarzen Wipfeln wohnt. (c)
Ein Feuerschein huscht aus den Hütten. (d)
Bisweilen schellt sehr fern ein Schlitten (d)
Und langsam steigt der graue Mond. (c)

Ein Wild verblutet sanft am Rain (e)
Und Raben plätschern in blutigen Gossen. (f)
Das Rohr bebt gelb und aufgeschossen. (f)
Frost, Rauch, ein Schritt im leeren Hain. (e)

    「韻」は「脚韻(Reim)」の意味で用いられるのが一般的で、「頭韻(Alliteration)」は脚韻とやや違う。
    脚韻はアクセントの落ちている音節に踏む。音節とは母音が作るものだから、アクセントの有る母音とそれに続く音節が同じ音かどうかで韻になっているかどうかが決まる。「Walt」と「kalt」のように母音と子音が一致しているものを「完全韻(Konsonanz, Vollreim)」、上述した例のように母音だけが一致しているものを「半韻(Halbreim)」または「母韻(Assonanz)」という。上述した例は、詩行の末尾でなくて詩行の中にあるから「行内韻(Binnenreim)」という。「Hütten」と「Schlitten」のように母音の一致が不完全な韻もしばしば使われる。これを意図的に使う詩ももちろんある。
    脚韻の用い方は煩瑣に細分化され分類されている。たとえばこの詩の脚韻は、各詩節で、1詩行目と4詩行目が脚韻してそれが2・3行目の脚韻をはさんでいる(「abba」の構造をしているという):これを「包韻(umarmender Reim)」という。包韻した4詩行で1詩節、それが3回繰り返されるというのがこの詩の構造である。
    「頭韻(Alliteration, Stabreim)」は語の頭の子音の一致に関する韻であり、ゲルマン語族(ドイツ語も)ではこの韻がふつうだったが、文学史上、ラテン語系(ロマンス諸語)の脚韻に地位を完全に奪われた。ドイツ語はロマンス諸語と違って完全韻が踏みにくい言語という。そして半韻や不完全韻で出す効果を狙うのに適した言語だから、ドイツ語でこそ味のある脚韻が豊かに作れるのだという議論もある。なお、「Alliteration」はどの言語の頭韻も意味するが、「Stabreim」はドイツ語詩の頭韻しか意味しない。
    脚韻をまったく踏まないドイツ詩の分野もあって、そこでは韻自体がいささかの役割も持っていず、韻を論じる余地が無い。それは古典ギリシャ詩・古典ラテン詩を模倣したドイツ詩の一潮流のことであり、ここではまた独特の、しばしばとてつもなく厳格で知性を刺激する韻律が用いられ論じられている。本文でKemperが触れたクロプシュトック(Friedrich Gottlieb Klopstock, 1724–1803)は、この古典詩模倣と、古典詩とドイツ詩との融合試行という潮流の創始者的人物。
    ところでKemperは少なくともこの論説の中では、冬にの脚韻について一切触れていない。

〔8〕Chiasmus。入れ子構造のこと。「HはPがそう思っていると推量している」という文を次のように2行に分解する:

「HはPが
そう思っていると推量している」

「Hは」は「推量している」に係っていて、「Pが」は「思っている」に係っている。係り・係られを線でつなぐと、Xの文字ができる。Xは古典ギリシャ語で「chi(χῖ)」という。Chiasmusはもとは古典ギリシャ語であり、入れ子構造文をchi文字として理解するのは、古代ギリシャでの修辞法に由来している:「Xの形にする」という意味の「χιάζειν」から派生したχιασμόςがそうである。ところで、西洋諸語での詩の理論で使われる用語は、大部分、古代ギリシャの詩の理論で確立されたものを用いている。
    さて日本語でChiasmusの文を作るには、例に挙げたような係る語+係られる述語という構造の文が私にはまず思いついた。他にあるだろうか。Chiasmus発祥の古典ギリシャ語の文法では、もちろん入れ子構造文がきわめて作りやすく、係る語+係られる述語という構造の文だけでなく、名詞句でも作れる。

ἓν, οἶμαι, σῶμ᾽ ἔχων καὶ ψυχὴν μίαν(1つの体と1つの心を持って)
                              (Δημοσθένης, Περὶ τῆς παραπρεσβείας, 19.227)

この文を次の2行に分解する(「持って(ἔχων)」・「と(καὶ)」は略):

ἓν...σῶμ᾽(1つの体を)
ψυχὴν μίαν(1つの心を)

「1つの(ἓν)」は数の形容詞であって、同じく数の形容詞である「1つの(μίαν)」とつながる。「体(σῶμ᾽)」は名詞であり、同じく名詞である「心(ψυχὴν)」とつながる。つながりを線で描くと、X=χの文字ができる。
    肝心のドイツ詩に関していうと、冬にの脚韻構造〔7〕が、abbaという包韻すなわちChiasmusの構造になっている。
    では例に挙げた古典ギリシャ語みたいに構文上Chiasmusになっているものをドイツ詩から引用しよう(Stolberg, Christian Graf zu: Theokrits achte Idylle、引用はGedichte der Brüder C. und Friedrich Leopold Grafen zu S. Hg. v. H. C. Boie. Frankfurt/Leipzig 1781. S. 212.より)。

Einst im Gebirge begegneten sich, so sagen die Hirten,
Daphnis weidend die Heerde der Kühe, der Schafe Menalkas, [...]

牧人のあいだで言うところでは、いつか山で出会ったそうな
牛の番をしているダフニスと、羊の番をしているメナルカスとが、〔...〕

この2行はヘクサメタ(ゲーテ「植物の変態」(a)の註〔1〕の(ホ)以下参照)で書いてある。1行目の「begegneten」に係っている主格の名詞が2行目の「Daphnis」と「Menalkas」である。1行目のそれ以外の語は「begegneten」主文の単なる修飾要素。2行目を次の2行に分解する:

Daphnis[,] weidend die Heerde der Kühe,
[und, weidend die Heerde] der Schafe[,] Menalkas,

2行目が省略している要素をこのように補うと、構文構造が明確になるだろう。2人の牧人つまり2つの主格それぞれに本当は「weidend」分詞構文が付いている。2つの分詞構文をつなげて、2つの主格名詞をつなぐと、線が交差してX=χの文字ができる。もっと言うと、この2行目は、2つの主格名詞に2つの分詞構文がはさまる入れ子構造をしている。こういう読みにくくてたまらん文を作った理由は、ヘクサメタ韻律の厳しい形式に合わせて構文しているからである。また、この詩の作詩当時の文章の習慣では、それからドイツ詩を作るときにはいつでも、読点(コンマ)の打ち方が、わざと読みにくくしているのかと言いたくなるぐらいテキトーである。気分でテキトーに打ってる。ただ、気分でテキトーに句・読点を打って気分でテキトーに改行して文章をよごしている最たる国民は日本人である。それをカカ大全で茶化しておいた。
    この2行はクリスティアン=シュトルベルク伯爵(Christian zu Stolberg-Stolberg, 1748–1821、レオポルド伯(トラクル「悪の変貌」の註〔4〕)の兄)が翻訳したテオクリトスの『小情景詩(Εἰδύλλια)』の第8牧歌の冒頭の2行である。シチリア生まれのテオクリトス(Θεόκριτος, ca.270 BC)は牧歌(Bukolik, τὰ βουκολικά)という詩ジャンルの創始者だということになっている。「牧歌」とか「田園詩」とか言うときには、文学では「idyll」と「bucolics」という2つ別の語がある。前者は「牧畜獣の番人・牧人」という意味の「βουκόλος」なる古典ギリシャ語の名詞から派生した語であり、後者は「情景」という語に縮小辞を付けた古典ギリシャ語の「εἰδύλλιον」なる名詞から派生した語である。

〔9〕Intertextualität。作品テキストを読解したり解釈したりするのに、他の作品テキストと照応・対比させながらそうすること。分析対象とするテキストは、そのテキストの中からなるべく外に出ないようにして読み込めば、内在的な読みをしていることになる;なるべく外に出るようにして読み込めば、比較文学的な読みをしていることになり、間テキスト的な読みをしていることになり、場合によっては歴史的な読みをしていることになる。
    Kemperが言いたいことは、間テキスト的な読みを自分はしているが、トラクル以外の人の作品や、詩以外の文学作品を参照しにいってはいず、トラクルの作品だけを参照しにいっているので、冬にの外に出てはいるが、それでも内在的な読みをしていることになるんだよということである。

〔10〕WiedergängerまたはWidergänger(別物ではない)。心霊現象のこと。不死者(Untote, undead)の一種。死後にこの世に出てくる霊で、しばしば体あり。ドイツ・スラブ・北欧といった様々な文化に見られる民間信仰。死後の平安を乱されたり、生前救われていなかったりして現れる。

〔11〕Synekdoche。比喩法の1つで、「代喩」とも言う。換喩(または転喩、Metonymie)と並んで比喩法の重要部門。以下の記述は、Burdorf, Dieter: Einführung in die Gedichtanalyse. Stuttgart/Weimar, 2. überarb. u. aktual. Aufl. 1997. (Sammlung Metzler. Bd. 284.) S. 155–156.の要約である。
    隠喩(または暗喩、Metapher)では、1つの語が、その通常の用法を越えて、非慣用的な文脈に入る。提喩と換喩では、1つの語が、その通常の用法の範囲内で、2つの意味にブレる。
    提喩というのは、部分が全体を表す比喩(足音で幽霊と死を表す)、または全体が部分を表す比喩(「ブタは食べません」は「ブタの肉の一部は食べません」)、または材料が産物を表す比喩(「絹で登場」は「絹の服を着て登場」)、または個物が類を・単数が複数を表す比喩(「人はパンのみでは生きれず」は「すべての人間は生活必需品だけでは生きてはいけない」)のことである。1つの語が2つの意味に量的にブレる。
    換喩というのは、属性が事物を表す比喩(「はがね」は「短刀」)、作品が作者を表す比喩(「カフカを読む」)、器が中を表す比喩(「1杯飲む」)のことである。1つの語が2つの意味に因果的にブレる。
    隠喩と違って提喩と換喩はイメージを広げるわけではない。提喩と換喩は伝統的な修辞法と詩法では語の繰り返しを避ける手段だった。だからといって提喩と換喩が保守的なわけでない。隠喩に陳腐なものがあるように、提喩と換喩に新奇なものもある。換喩は、隠喩と違って、像の受け手と与え手がそれほど意味的に離れてはいない。また換喩は、提喩と違って、2つの意味がだいぶ離れる。だから隠喩・提喩・中間の換喩という関係が成り立つ。近年の詩学では、隠喩と換喩だけが認められ、提喩は後者に含められる。
    それと、隠喩の説明(Ebd, S. 151–154)も要約しておこう。
    隠喩というのは、何かを何かに喩(たと)える表現法であるが、比較詞も「比較のための第3者」も使わない(トラクル「悪の変貌」の註〔15〕参照)。むしろ、喩(たと)えられる2つものが、共通点で折り合うのではなくて、相似または対立したまま1つの新しいものになると言っていいい。隠喩は、言葉の規範的な使用法なり・普通の意味なりから逸脱して作られるものである。関係なさそうすぎる語同士が結合し、1つの新しいものを作る。
    ゲーテの川辺で(Am Flusse)2行目に出てくる「忘却の海(Meer〔e〕 der Vergessenheit)」を例に取ろう。「忘却」は比喩の像の受け手(Bildempfänger)であり、「海」は比喩の像の与え手(Bildspender)である。受け手には与え手の特性が帰する:「忘却」は「海」のように広くて深くて見通せない。2つの結合は2つの単なる合算より以上のことを語る。像の与え手と受け手との組み合わせの例を挙げよう:
述定:ハンスはロバだ(Hans ist ein Esel)
名詞と動詞:その車は良く走る(Der Wagen läuft gut)
名詞と形容詞:雷雨なす耳(das gewitterndes Ohr; Celan)
同格:発見鳥=愛しの脚韻(Fundevogel, lieber Reim; Peter Härtling)
属格付加語:雲のやさしい背中(der zarte Rücken der Wolken; Bachmann)
与え手と受け手は述定だとはっきりしている。「ハンス」が受け手で「ロバ」が与え手。同格は述定の略式と言える:「愛しの脚韻は発見鳥だ」。他の例では、名詞の主格が受け手であり、動詞・形容詞・属格名詞が与え手である;だから属格を使う隠喩は述定に替えれる:「雲にはやさしい背中がある」。
    しかし、「リラの吐息(Fliederhauch; Droste-Hülshoff)」のようなものではそうはいかない。これは「リラの吐息(Hauch des Flieders)」という意味であるが、「リラ」の方が像の与え手であり、「吐息」の方が受け手である〔「忘却の海」と逆〕。この隠喩は、「リラの香り(Fliederduft)」というような表現を擬人化したものである。擬人化したものといえば、「煙の口(Rauchmund; Celan)」なり「視の幹(Sehstamm; Celan)」なりという隠喩では、与え手と受け手の区別がつかなくなる。こういう極端な隠喩(kühne Metapher)を作る代表者が、ツェラン・ヘルダーリン・ドロステ=ヒュルスホフである。特にツェランが作るあふれかえるような隠喩は、像の与え手だけが有ってもう受け手は無いというものである。隠喩を解読して現実の何かに対応させるのが無意味になる。それは絶対隠喩(absolute Metapher)であると言える。〔Burdorfが例示するツェラン詩は割愛。試みに、どれでもいいからツェラン詩を見てみるとよい。どのツェラン詩も、絶対隠喩にあふれかえっている〕
    異なった感覚を結合させる「共感覚(Synästhesie)」も隠喩の1つである。「私を包んだ夜から/音の光が見ている(Durch die Nacht, die mich umfangen, / Blickt zu mir der Töne Licht.; Brentano)」という隠喩では、全感覚が像を受容しているかのようである。
    隠喩が積み重なっていって1つの寓喩(トラクル「悪の変貌」の註〔16〕)になるとも言える。その限りでは、隠喩は寓喩と区別が付かない。